私が習った歴史の先生

母親から:母は大阪の人で司馬遼太郎とは同じ塩草小学校、歳は3つ上なので3年間は同じ時期通っていたことになる。母から聞いた歴史は仁徳天皇の「民のかまど」の話、これは学校の宿題で母親から聞いた話を作文にすることだった。

 母は沖縄の戦争の話をした。父が沖縄出身なので父の親戚から聞いた話である。「アメリカの船は陸に上がると直ぐにジープになるんだ」と。水陸両用上陸用舟艇をそう表現した。

 大阪での空襲の話もした。神崎川の川原にB-29が墜落した。女も乗っていた。「アメリカ人は女も戦争しなければならないんだ」

 母の父(祖父)は滋賀・彦根の人でいわゆる近江商人である。琵琶湖と太閤さんを自慢していたという。


学校の先生から:小学校の先生は奈良・法隆寺の近くで生まれ育った人だった。奈良時代郷土史として語られた。遠足は奈良だった。中学の先生は元特攻隊員だった。呉の海軍兵学校に居た。「江田島じゃないよ。呉にもあったんだ。」広島の原爆の目撃者でもある。「こういうこと言うと怒られるけどな、最初に出た言葉は『綺麗やな〜』やった。紫色でな〜」と。戦後、復員して労働運動に入った。2・1ゼネストで挫折、涙を流したという。そのあと、精白児の先生、それが挫折して普通の先生になったという。

高校の先生からはたくさん学んだが「田沼意次はワイロ政治家として評判は悪いが、政策はマニュファクチャ段階の日本としては当時ヨーロッパと比較しても進んでいて評価すべきである」と指摘を受けた。

高校を卒業した段階で3人に興味を持った。1)田沼意次 2)徳川秀忠 3)藤原不比等 それ以降、この3人の究明が関心の課題になった。


その後、私は大阪⇒東京⇒金沢⇒富山⇒金沢(能登を含む)⇒東京(川崎・横浜を含む)と移り住んで、今は神奈川・大山厚木街道長津田宿にすんでいる。