皇国史観とは日韓合邦史観

 朝鮮の歴史に武家政権がなかった。その兆候(崔氏政権)はあったのだが、蒙古・元の侵略と戦って、珍島から斎州島まで退いて抵抗したが消滅してしまった。だから、日本のように鎌倉から江戸までの武士による政治運営がなかった。

 武家政権とは(体育会系+理科系)で、公家政権は(文科系)といえる。明治以降、この文系が幅をきかしている。日本では鎌倉以降、公家政権と武家政権が住民へのサービス競争をしてきた(今東光の逆説日本史)

 明治政府にとって、鎌倉から江戸の武家政権を無視したかった。朝鮮にはこの武家政権がなかったから、日本史を創設する上で平安時代を引きずっている朝鮮と連結することに躊躇しなかった。

 だから、王政復古で奈良・平安時代が強調されて、明治となる、この明治も本来の伝統・鎌倉以降の日本的なもの・が排除されて、「伝統の創設」を大義名分として、キリスト教の諸行事を神道風にアレンジした。それが、旧暦から新暦に切り替えて、無理やりの諸行事を設定してしまった。

 日本の伝統的な原則は「複合体の共存」である。クジラを食べる人たちも居たら食べない人も居る。お互いに相手に強制をしない。源氏と平家が共存している。

 家康は歴史を重んじた。収集した文献、和書を尾張に、漢書紀州に管理させた。後発の水戸には何もなかった。そこで光圀は全国から文献を集めて大日本国史を編纂、政権の正統は公家・天皇であるという政権交代の正当性を主張した。そこに上位の尾張紀州に対する「邪念」があったというのが私の解釈である。この邪念を正当化する学問が朱子学である。

 日韓合邦史観の象徴が「水戸黄門物語」である。これは満州映画と双子の東横映画(東映)の作品で、戦後は、大陸(満州や朝鮮)からの引き上げてきた人たちが作ったTBSという放送局の看板番組となった。

 水戸黄門は諸国漫遊はしなかったし、全国どこを探しても悪代官はいなかった。全国を漫遊して悪代官の不正を暴いていたのは李氏朝鮮にあった「暗行御史」という役職で、若手のキャリア官僚が地方に隠密として潜入、代官の不正を見つけて、肌身離さず持っていた「御碑」をとりだして、「御史出道ぞ!」と呼び立てた。

 最近では、必殺!仕分け人かもしれない。

 紀州は薩摩と組んだ。尾張からは後に徳川義親が出てきて、昭和期の軍クーデタの黒幕となり、戦後、日本社会党を作った。