お米が主食という間違いについて

 稲作は縄文人の「お遊び」からはじまったという人がゐる。私も賛成である。24節気の一つに芒種というのがある。稲のような穂先のある植物が育つ頃という意味で、6月6日頃から夏至に至るまでで、丁度、今の季節である。

 稲が南方から伝わったのであろうが、人が持ってきたとは限らない。鳥の体に付いてきた。日本に着てからは獣の体が運ぶ。青森の縄文遺跡に稲作の跡地がある。ため池を作っている。このため池の役割は雪解けの水は冷たいのでそのまま田圃には引けない。常温で温めてから、そのためのため池であった。

 古代米はもち米だったという。これをついてお餅にして、お正月やお祭りで食べた。収穫を神に捧げ、お下がりとして神様からのもらい物として食べた。お米とは特別のもので、毎日食べる主食ではなかった。

 現在の農業が行き詰っているのは米を主食として生産の主力にしているからである。日本人がお米を大量に食べるようになったのは、明治期の軍隊からである。「正月やお祭りにしか食べれなかった米・飯・ご飯・を毎日食べられるんだ」これが常民を兵士にする「飴」にした。

 ところが、兵士達に「かっけ」が流行りだした。ビタミン不足からで、2割麦を入れると「かっけ」は防げた。海軍はこれを取り入れたが陸軍は取り入れなかった。医者の考え方が違っていた。海軍はイギリス流で理由が分からなくても良い物は良いと経験を重んじた。しかし、陸軍はドイツ流で理論上の証明がなければ採用できないと頑迷だった。その頑迷の主は森鴎外その人だった。

 米食から脚気が流行り、その克服として麦飯という健康食という方向と、アンプルに入ったビタミン剤を注射するという薬物依存の習慣が発生した。これを伝統の創設というのだろうか? このビタミン剤がヒロポンになった。「これよう効くで!」と。



 神道では収穫祭が3回ある。旧暦9月17日の神嘗祭、旧暦11月の第一卯の日が相嘗祭、旧暦11月の第二卯の日が新嘗祭。旧暦10月は神無月といい、出雲に全国の神様が集まって神様が居ない。だから、出雲では「神有月」という。

 9月の神嘗祭⇒10月の神様会議⇒11月、2回の神様からのお下がりを頂く儀式。稲作を中心とした皇室行事の重要なプロセスである。これを明治になって新暦を採用して、11月23日を新嘗祭と決めて、手続きを簡略化してしまった。新暦の9月では新米は出来ていないので1月遅れの10月17日に神嘗祭を各神社はやっているが、祭礼の時刻が丑の刻・午前2時前後。旧暦17日だとこの丑の刻に月が南中する。

 天皇が即位して最初の年の新嘗祭大嘗祭といい、即位の信任儀式となっている。この重要な儀式のプロセスをぐちゃぐちゃにしたのが、明治維新だった。政権交代、怪しからんという保守派の人たちが神聖視する明治維新の実態が伝統を壊す如何様だったのである。


 お米だけでは経済が回らない、密貿易に手を染めていた雄藩・長州や薩摩が政権交代の主導権を握った。彼らがいち早くイギリスと手を結び日本での主導権を握っていく。

 米作りはお遊びという稲作の原点に戻らなければならない。