大阪文化の基層としての板東英二

 今日の安住紳一郎のラジオ番組のゲストが板東英二だった。70歳になるという。甲子園での活躍はよく憶えている。

 大阪文化は京都を母体にして名古屋勢力(秀吉+家康)によって形成された。司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで「徳島弁は京都弁のルーツでは」と着想している。大阪の人は大阪弁以外の関西弁を聞くと京都弁に聞こえるのだが、司馬さんは京都で長く記者をしていたから、信憑性は高い。信長が入る前は徳島を拠点とする三好勢力が畿内を支配していた。

 京都=徳島という設定は面白い。そこに名古屋勢力が信長を先頭にやってきて、秀吉・家康と続く。板東英二はこの徳島・名古屋を基点に関西で活躍して東京にやってきた。

 大阪文化が秀吉によって作られたというのは明治以降の解釈というか解説で、本当のところは江戸文化と双子の兄弟と言って良い。江戸の分身としての大阪である。明治以降、四国・沖縄・朝鮮といった船でやって来る人たちの日本上陸点になった。東京の場合の上野駅が、天保山という桟橋になる。

 この大阪と大陸を結ぶ中継点に小倉がある。