戦後をリードした満鉄・物産文化

 東大の人が大学というと東大を意味します。塾というと慶応で専門学校というと早稲田です。三井物産の人は自分達の会社を物産と言います。関連の会社が皆、三井〜と名乗っていますから、物産といわざるをえないのかもしれません。

 マグロのトロは脂が強くて昔は捨てていました。これを好んで食べたのは築地近くで仕事をしていた三井物産の社員達でした。小田急線に百合丘という駅があります。ここに三井建設が2DKという典型的な団地をつくりました。団地族発祥の聖地になりました。ドラマや映画の舞台になりました。

 佃島ウォーターフロントとして高層マンション(40階建て)群が新東京の風景になっています。このマンションの最初の工事、3日だけですが行った事があります。それまでは高層建築はオフィスだけでしたが、住居として建てたのはここが最初です。もんじゃ焼きの名所として佃島は有名になりましたが、誰か、仕掛け人は居ると思います。

 山手線30ほど駅があります。東京の中核ですが、駅が出来た頃は皆、街外れでした。その一つ渋谷と横浜を結んだのが東横線東急電鉄の本線になっていますが、もともとの本線は目黒〜蒲田(目蒲線・現在は目黒線多摩川線)でした。

 山手線で渋谷⇒恵比寿⇒目黒⇒五反田と品川方面に駅が続きますが、この目黒と蒲田を結ぶのが目蒲線、五反田と蒲田を結ぶのが池上線です。東横線目蒲線が連絡している駅が2つあります。田園調布と多摩川園(現在は多摩川)です。田園調布は昭和初期、分譲地として売り出された地域で200坪が1軒分でした。これが豪邸になりました。小田急線の成城も同じ時期の分譲地です。今の分譲地、50坪でも大きいくらいです。戦前の日本がいかに余裕があり、センス良かったと思います。

 品川から横浜方面に京浜東北線が走っています。品川⇒大井町⇒大森⇒蒲田⇒川崎と続きます。大井町からも東急電鉄が出ています。この路線、よく名前が変わります。現在は大井町線ですが以前は田園都市線でした。この田園都市プランというのが満州都市プランの残影になっています。満州が本格捕鯨としたら、東急の田園都市線は調査捕鯨のようなものです。

 私が東京に来て35年ですが、その間、この田園都市線が徐々に延びました。鷺沼⇒あざみ野⇒長津田⇒つくし野⇒つきみ野⇒中央林間、終点の名称が変わりました。あざみ野の団地の工事に行っていたのは30年前のことです。つくし野はTBSドラマ「金曜日の妻たち」の舞台になりました。開発とメディアの二人三脚は続きます。

 蒲田は映画の街でした。関西から来た人たちが造った街です。雰囲気は十三です。この人たちが大船に移りました。大船も雰囲気は関西です。

 大森は海苔の全国集散地になっています。ここは秀吉が朝鮮から連れてきた海苔養殖技術者の子孫達の街です。

 この大森町と蒲田町と周辺の村が合併して大田区が出来ました。田園調布や下丸子はその周辺の村だったところです。

 目蒲線は田園調布⇒多摩川園⇒沼部⇒鵜の木⇒下丸子⇒武蔵新田と蒲田方面に続きます。内田先生の出た小学校は下丸子より池上線の久が原に近いところで、まあ、個人情報・ぼかして書くのがライターの鉄則のようです。私がフリーライターの時、レポートの手本にした上坂冬子さんもこの沿線に住んでいたのですが、書く本によって、田園調布になっていたり、奥沢になっていたり、自由が丘になっていたりします。

 鵜の木は切り通しもあって、ミニ鎌倉といわれ文化人も多く住んでいました。引揚者たちがその生活力に応じて田園調布を中心に通勤に便利な東急沿線に住んだわけです。引揚者=貧乏人とは限りません。

 私がこの鵜の木界隈に住んだのは昭和55・1980年から5年間で、まだ、環八の工事をしていました。道路が途切れて、ケヤキの林が残っていました(道路予定地)その横にあった小学校が内田先生の学び舎です。途切れて出来上がった道路は自動車が通らないので地元の人たちのテニスコートになっていました。

 この辺の地主農家の庭は広くて、皆さん、自前のテニスコートを持っていました。私はその一角の木造モルタルアパートを借りていました。マスコミは田園調布の200坪を豪邸と持ち上げますが、地元地主から見たら些細なことです。

 佃島徳川家康が大阪・佃から連れてきた船操縦技術者の子孫の街です。住吉神社があり、祭日は大阪の住吉大社と同じ8月1日です。ただ、御祭神の中に徳川家康が含まれています。大阪の人は知れば驚くでしょう。

 三井倉庫の大きな敷地があって、そこが高層マンションの敷地になりました。草柳大蔵の娘・草柳文恵はこの高層マンションに住んでいましたが病気を苦に自殺。高層のベランダのため警察は特別の足場を作って遺体を収容しました。