平安遷都の真実

 歴史学者の定説を信じなくなったのは1994年・平成6年のことである。「なくよ鶯平安京」と平安遷都794年を覚えた。この平成6年は京都1200年という記念すべき年だった。その翌年に阪神大震災やオウムのサリン事件が起こった。

 比叡山延暦寺が建立されたのは延暦7年・789年である。その1200年を記念して宗教サミットが延暦寺で行われた。その準備の様子を当時、新聞記者をしていたので取材に行ったこともあった。そこで疑問を持った。

 歴史の定説では「京都の鬼門・東北・丑寅を護るために延暦寺を建立した」学校でそう習った。しかし、延暦寺の方が5年早い。偶然なのか、それとも延暦寺関係者が都を南西・未申に持ってきたのか?

 この御所と延暦寺の間に吉田山がある。吉田神道の拠点で政権に影響力を持っていた。叡山と吉田神道の間で主導権争いがあった。徳川政権の家康・秀忠・家光の三代で、叡山が勝った。

 司馬遼太郎の「街道をゆく」はこの三代の争いの事情を別の角度から描いている。