空が紫色だった頃の大阪について

 私は大阪の西成区で生まれ育った。昭和35年ごろ、私は小学生から中学生になろうとしていた。その頃、西方向に大正区があり、そこは大きな工場が大きな煙突からモクモクと朱色の煙を毎日、吐き出していた。

 今の若い人には信じられないだろうが、公害が叫ばれだしたのは70年代に入ってからで、60年代の光景は大気を汚すこと、それを煙の都と大阪の人たちは、それを誇りにしていた。

 青空の下に赤い煙が薄い幕を張っている。その幕が朱色なら青+赤⇒紫となる。

 小学4年から自転車を乗り始めて、その朱色の煙を出す工場まで行ったことがある。工場の周りの道路は朱色の粉でその街自体が赤かった。

 私の住む西成区と工場のある大正区の間には木津川という橋のない川があった。大きな船が通るので橋の代わりに渡し船があった。まだ、動力に切り代わっていなかった。伝馬船、艪があった。船頭さんは大阪市の職員だった。自転車を何台も乗せられる大きな船だった。

 大きく円弧を描いて川を渡った。

 そして、その朱色の煙を出す工場の側まで行った。

 空の色が青いと気づいたのは金沢に移り住んで1年も経ってからで、「これが青空か」としみじみ眺めた時、私は20歳を過ぎていた。